租借地のはなし

はじめに

租借地とは、外国が中国から借りた地域のことを指します。中国が自ら望んで貸したというよりかは、外国が軍隊などを用いて脅して借りた形です。租借地は中国国内にありながら、外国が行政権を持っていました。

 

各地の租借地

膠州湾租借地

1897年11月にドイツの宣教師2名が山東省内で殺害され、ドイツが軍隊を山東省に派遣しました。翌年の1898年にドイツは山東省の膠州を99年間租借することとなりました。こうしてドイツは膠州を租借、運営していくこととなります。現在でも青島がビールで有名なのはこうした歴史的な背景があります。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に山東省に軍隊を派遣し、膠州湾租借地山東鉄道を占領します。1915年にいわゆる「対華21カ条の要求」を中国に突き付け、交渉の末、山東省のドイツ権益を日本に譲ることとなりました。日本の強引な姿勢は、中国世論の反感を買い、反日運動が起こります。第一世界大戦後に開かれたパリ講和会議(1919年)で中国代表団は旧ドイツ権益を返還するよう求めますが、最終的には実現しませんでした。中国が第一次世界大戦戦勝国になったにもかかわらず、回収できなかったことに中国世論は憤慨し、「五・四運動」が起こります。膠州湾租借地などの返還について、いわゆる「山東問題」については1922年のワシントン会議において再び議論され、結果的に、中国側に返還されることとなりました。ただし、その後も、3度にわたる山東出兵などで山東省に軍隊を派遣しています。

 

関東州租借地

1894年に日清戦争が勃発し、翌年の4月17日に締結した下関条約遼東半島が日本に永久割譲されることとなりました。しかし、いわゆる三国干渉によって日本は遼東半島を中国に返還し、かわりに3千万両の償金を得ることとなりました。その後、ロシアは、1898年に旅順・大連の租借権(25年)と鉄道敷設権を得ることとなります。1904年に日露戦争が勃発し、翌年9月に締結されたポーツマス条約によって日本は旅順・大連の租借権(1923年まで)と旅順口から長春(寬城子)までの鉄道部分を得ることとなりました。1915年に日本が「対華21カ条の要求」を中国側に突き付け、関東州と南満州鉄道などの租借期限をそれぞれ25年から99年に延長することとなりました。ただ中国世論はこうした日本の要求に反発し、1923年(租借期限25年の場合1923年に返還であったため)には旅順・大連の返還を求める大規模な運動が起こりました。1931年9月に満州事変が起こり、翌年、傀儡国家である「満州国」が建国されると、関東州租借地は「日満議定書」に基づき「満州国」から借りる形となりました。1937年には「満州国」における治外法権を日本が撤廃し、南満州鉄道附属地の行政権を「満州国」に「移譲」することとなりました。1945年8月にソ連軍が旅順・大連を占領し、1955年までに中華人民共和国へと返還されたようです。

 

広州湾租借地

1898年、フランスは中国に対し租借地および鉄道敷設権などを要求し、翌年の11月にフランスは「広州湾租界条約」を中国と締結し、広州湾を99年間租借することとなりました。同時に、広州湾赤坎から安鋪までの鉄道敷設権を得ることとなりました。広州湾租借地は総面積1300平方キロメートルで人口は約22万人でした。租借地はフランス領インドシナ総督の統治に置かれ、総督は行政長官に租借地内の行政を任せていました。租借地内は3つの行政区に分けられ、軍事と政治の中心は西営に、貿易の中心は赤坎に置かれました。第二次世界大戦が勃発した後、広州湾租借地は自由フランス亡命政府の管轄に置かれていたようですが、1943年に日本軍が租借地内に進駐しました。当時重慶にあった国民政府はこのことに強く抗議したようです。1945年8月に日本が降伏すると、フランスと国民政府が重慶で協定を結び、1899年の条約の破棄と租借地の行政権を中国側に返還することが決められ、返還が開始されました。1947年5月までに広州湾租借地がすべて中国側に返還されました。

 

九龍租借地

アヘン戦争(1840-1842)の後、「南京条約」によって香港島がイギリスに割譲され、続いて、1860年に「北京条約」によって九龍半島の南側がイギリスに割譲されました。イギリスは、フランスが広州湾を租借しようとしていることが香港の利益を侵害する恐れがあるとして、香港の領域を広げることを中国側に要求しました。1898年6月にイギリスと中国は「展拓香港界址専条」を締結し、深圳河より南側の九龍半島とその付近の島々を99年間イギリスに租借することとなりました。この地域を「新界」と呼びます。1941年12月に日本とイギリスが戦争に突入すると、日本軍は香港に進駐します。同月25日に香港総督が降伏し、香港での戦いが終了しました。ここから3年8カ月 にわたって香港は日本の占領下に入ります。1945年8月に日本が戦争に負けた後、翌月16日に香港総督府にて降伏文書に署名しました。中国側は、香港を回収する希望はあったようですが、結果的にイギリスが再び香港を運営していくこととなります。1971年に中華人民共和国が国連に参加すると、香港とマカオ不平等条約によって残された問題であり、中国領土の一部で、通常の「植民地」とは違うと提起しました。80年代になり、新界の租借期限満期が近づいたため、中国とイギリスが交渉を行い、結果的に、1984年12月19日に「香港問題に関する共同声明」に署名しました。声明において、イギリスが、1997年7月1日に香港を中華人民共和国に返還することが決まりました。1997年7月1日に香港は中華人民共和国に返還され、「香港特別行政区」となりました。

 

威海衛租借地

日清戦争(1894-1895)の際、日本軍は威海衛に上陸しました。日本は、中国側が賠償金を支払った場合、威海衛から軍を撤退する意思を示していました。また、イギリスは、イギリスが威海衛を租借しても日本は反対しないことを確認していました。日本としては、イギリスと共にロシアに対抗する必要があったためです。威海衛は山東省の北東部に位置し、旅順・大連とも距離的に近いため、ロシアをけん制する目的があったと思われます。さらに、イギリスは、ドイツの山東権益を侵害しない旨を通達し、租借地付近での鉄道敷設はしないことを宣言しました。こうして、1898年7月1日に「英中威海衛租借専条」を締結し、この地を租借することとなりました。締結までの5月23日に日本軍は威海衛を撤退し、翌日の5月24日にイギリスの軍艦が威海衛に入港しました。イギリスは、「威海衛弁事大臣公署」を設置し、イギリスの弁事大臣が統治することとなりました。租借期限は、旅順・大連と同じく25年でした。ただ、威海衛は鉄道がなかったため、経済的には発展しなかったようです。1905年9月に旅順・大連がロシアから日本の手に渡ると、中国側は、威海衛の返還を求めたものの、イギリスは受け入れませんでした。租借期限満期である1923年が近づくにつれ、租借地回収の世論は高まっていきました。中国とイギリスは交渉の末、1924年11月28日に租借地回収に関する専約草案に署名しました。ただし、北京において政変が起き、回収の交渉がとん挫することになります。1929年から、国民政府外交部長である王正廷がイギリス側と交渉を進め、1930年4月に「威海衛交収専約」と「協定」に調印し、同年10月1日に南京で批准書が交わされ、同日午前10時30分、威海衛にてイギリスから中国への引継ぎの儀式を行い、ここから中国の管理下に置かれます。ただし、威海衛近くの離島である劉公島上の施設については引き続き10年間はイギリス軍が使用できるとされました。1937年に日中戦争が勃発すると、翌年、日本軍が威海衛と劉公島を占領し、イギリス軍の大部分は撤退したようです。日本の傀儡政権である汪兆銘政権は引き続きイギリス軍が使用することを認めなかったため、条約に基づき、1940年10月1日にすべてのイギリス軍が撤退しました。汪兆銘政権の海軍は劉公島に「威海衛要港司令部」を成立させました。中国が本当の意味で劉公島を回収したのは日中戦争が終わってからのことです。現在は、「威海市」となっています。

 

おわりに

国家の主権という意識が高まるにつれて、租界同様、租借地についても回収することが重要なテーマとなっていきました。1997年に九龍租借地を含む香港が返還されたことにより、租借地回収の外交交渉に終止符を打つこととなりました。

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参考文献:

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

李恩函「中英収交威海衛租借地的交渉」『中央研究院近代史研究所集刊』第21期、1992年。

張洪祥『近代中国通商口岸与租界』天津人民出版社、1993年。

石源華『中華民国外交史』上海人民出版社、1994年。