中国に駐兵していた日本軍のはなし

はじめに

日本はかつて中国に日本軍を駐兵させていました。主な目的は、居留民や鉄道の保護でした。ここでは、簡単ではありますが、歴史を振り返りたいと思います。

 

東北地方

イギリスやフランス、ロシア、ドイツなどの国は租借地(中国から借りた土地)を得ると軍隊を駐兵させました。日本は日露戦争の後、ロシアの租借地であった旅順・大連を得ました。そして、日本軍を租借地および南満州鉄道附属地に駐兵させました。これらの軍隊は、関東都督陸軍部で、租借地および鉄道附属地を防衛する目的で駐屯していましたが、1919年に関東庁が改組されると、関東軍として独立しました。1931年9月に、関東軍は自ら柳条湖付近で南満州鉄道を爆破させ、満州事変が起こりました。東北地方における日本軍の駐屯は、日露戦争後に結ばれた「日露両国講和条約」の追加約款第1条を根拠にしていました。ただし、「日清間満州に関する条約」の附属協定第2条では、外国人の安全を中国側が保護できる状況になった場合は、鉄道附属地から撤退するとあり、日本と中国側で、外国人の安全を保護できているかで主張が食い違っていました。

 

華北地区

義和団事件が起こり、1901年に日本を含む11カ国と中国との間に「北京議定書」が締結され、8カ国の軍隊が山海関から北京までの鉄道沿線計12か所に外国が駐兵することとなりました。北京では、公使館区に日本軍が駐兵し、天津にも駐兵しました。これらの日本軍は「清国駐屯軍」のちに「支那駐屯軍」と呼ばれます。駐兵理由は、公使館・領事館、居留民の保護などでした。各国は華北地区に軍隊を駐兵させ、ある意味では「国際協調」的な側面がありました。1937年7月に北京郊外の豊台に駐屯する日本軍と中国軍との衝突が起き、日中戦争の発端となりました。ただ、豊台は「北京議定書」が定める駐兵地点に入っていませんでした。

 

山東

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は山東省に出兵し、ドイツとの戦争の結果、ドイツ租借地および山東鉄道沿線を占領しました。この結果、青島守備軍と呼ばれる陸軍が駐兵することとなりました。1915年には「対華21カ条の要求」を北京政府に提出し、山東省における旧ドイツ権益を日本が継承することとなりました。ただし、こうした日本の強硬な姿勢は中国世論の反発を引き起こし、日本製品ボイコット運動が起こります。1919年には、フランス・パリで講和会議が開かれ、中国は第一次世界大戦戦勝国として参加し、旧ドイツ権益を中国に返還することを求めたものの、認められず、五・四運動が起きます。1921年から22年までのワシントン会議の開催に伴い、山東問題が再び議論され、旧ドイツ権益は中国に返還されることとなりました。これにより、日本軍は山東省から撤退をします。ただし、その後、北伐の際に、日本は山東省に軍隊を派遣しています。済南では、中国軍と軍事衝突が起きました。注目すべきは、第一次世界大戦の際、日本がドイツと戦争する際の最後通牒で、租借地を中国側に返還することを目的として日本側に渡すことを要求していたことです。結果的に日本とドイツとの間で戦闘が起こり、「山東問題」が複雑化してくことになりました。

 

漢口

1911年に辛亥革命が起きると、日本、ロシア、イギリス、ドイツなど各国は漢口に軍隊を派遣しました。ただ、他の国は比較的短期間で軍隊を撤退させたものの、各国の軍隊が撤退した後も日本軍は単独で駐屯することとなりました。漢口での日本軍の駐屯は、当初、日本租界内だったのですが、その後租界の外側に兵営を設置しました。こうした駐兵は法的な根拠が乏しく、日本軍は1922年7月に、漢口から完全に撤退しました。辛亥革命以降漢口に駐屯していた日本軍を「中清派遣隊」のちに「中支那派遣隊」と呼ばれます。

 

おわりに

上記以外にも、租界に住む居留民を保護するという理由で軍隊を上陸させるということがありましが、こうした軍事行動は条約上の根拠は乏しかったようです。1932年の第一次上海事変の後、上海海軍特別陸戦隊を上海に常駐させましたが、これも上海にいる日本居留民と経済的利益を保護することが理由でした。上海では、1937年の盧溝橋事件の後、再び大規模な衝突が起きています。

日本軍が中国に駐留する理由としては、基本的には、居留民や鉄道、経済的な利益を保護することとなっていました。ただ、駐兵が中国側との衝突のきっかけになったという側面もあります。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

櫻井良樹華北駐屯日本軍』岩波書店、2015年。