近代中国における内地雑居のはなし

はじめに

アヘン戦争(1840-1842)以降、中国は条約を各国と結び、西洋式の国際秩序へと参加していきました。当初、外国人は基本的に「通商口岸」という条約で決められた開港地でのみ居住や生活が許されていましたが、実際には、宣教師などの外国人が内地に入っていました。西洋の宗教を中国の内地で布教しようとすると、文化や宗教の衝突が起こりました。こうした宗教に関する事件を中国語で「教案」と言います。1848年の「青浦教案」や1856年の「西林教案」などがその代表例です。

1858年に中国とイギリスの間で「天津条約」が締結されると、イギリスなどの国々の外国人が開港地をはなれて内地に旅行などをすることができるようになりました。原則、外国人は土地の購入はできなかったのですが[1]、実際には購入する外国人もいました。ここでは内地雑居について簡単ではありますが書きたいと思います。

 

避暑地の形成と回収

湖北省河南省の境界近くに避暑地として有名な鶏公山という場所があります。1903年ごろから、外国人が鶏公山の土地を購入し教会や別荘などを建てていきました。中国各地からイギリスやアメリカ、日本などの宣教師や商人が鶏公山に来るようになりました。1905年までに27の別荘が建てられ、60人から70人ほどの外国人が滞在したようです。避暑地として発展するにつれて、中国側の行政権が行き届かなくなる場所が出てきました。外国人が独自の自治管理を行い、中国の警察が管理できなくなりました。こうなってくると、「租界」のような地域に変わっていきます。中国の内地で行政権が行き届かなくなると、中国側からすれば主権が制限されるので、見逃すわけにはいきません。そこで、中国側(湖北省河南省)と駐漢口総領事の間で交渉が行われ、1908年1月に「鶏公山収回基地房屋另議租屋避暑章程十条」が締結され、行政権が回収をされて外国人が行政管理することは禁止されました。外国人が購入した土地や建物は中国が買い戻し、その後外国人に貸すといった形を取ったようです。中国に回収された後、「教会区」、「洋商区」、「河南森林地」と「湖北森林地」の4つの区画に分けられ、中国側が管理することとなりました[2]。1935年には国民政府が「鶏公山管理局」を成立させ、行政、公安、教育などを管理していきました。

鶏公山以外にも、浙江省には莫干山という山があり、こちらも西洋人が避暑地としての目的で土地を購入、取得して、さまざまな別荘や施設を建てていきました。外国人が「莫干山避暑会」という自治会も成立させ、行政の一部も担っていたと考えられます。そうなると、こちらも中国の主権が制約されてしまいます。清朝末期から中国側は行政権の回収を目指し交渉を開始し、1928年には「莫干山管理局」が成立し、行政権を完全に回収しました。

河北省に位置する北載河にも西洋人が訪れ、土地を購入、建物を建てていきました。ここでも外国人が「北載河石嶺会」という自治会を成立させました。1917年に中国がドイツと断交すると、ドイツ人が避暑地から離れていき、中国側がドイツ人資産を回収します。1919年には「北載河公益会」を成立させますが、行政権執行は制限されていたようです。1932年5月に河北省が「北載河海浜自治区公署」を成立させ、1934年から本格的に機能したようです。

 

土地商租権問題

中国東北地方での土地商租権問題は、1915年のいわゆる「対華21カ条」要求に遡ります。それまでは、鉄道附属地や商埠地[3]などに限られていたものの、1915年5月に締結された「南満州及東部蒙古ニ関スル条約」の第2条では、日本人は南満州において各種工業上の建物を建設するため、または、農業を経営するため必要な土地を商租することができるとされ、第3条では日本人は南満州において自由に居住往来し各種の商工業そのほかの業務に従事することができるとされました。また、同条約第6条では中国はなるべく早く外国人の居住貿易のため自ら進んで東部内蒙古における適当な諸都市を開放することを約束しました。ここでいう「商租」とは土地を借りるという意味ですが、南満州における「商租の文字には三十箇年迄ノ長キ期限附ニテ且無条件ニテ更新シ得ヘキ租借ヲ含ムモノト了解」するとありました[4]。ただし、中国側はこの日本人の土地取得に反発し抵抗しました。これが土地商租権問題です。日本からすれば、条約通り南満州および東部内蒙古の土地を使用し、商業や農業で利益を得たいと思ったものの、中国側からすれば、軍事的な圧力をかけて締結した条約を認めるわけにはいかないとの思いがありました。結局、両者の意見は平行線をたどり、満州事変を迎えることとなりました。

 

おわりに

外国側は、商業や宗教などを外国人居留地から離れて内地で行いたいという一方、中国側としては、抵抗する側面を持っていました。日本も例外ではなく、南満州での土地商租権問題などは懸案の一つとなっていきました。

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[1]1865年の「ベルトミー協定(The Berthemy Convention)」及び1895年に協定に追記された内容によれば、ローマカトリックの団体であれば、内地で土地を購入し教会を建てることができたようです。ただし、鶏公山での土地取得は、宣教師が積極的に行ったものの、教会団体の公的財産との記載はなく、個人取得の側面が強いことから法的に問題があったようです。詳しくは植田捷雄『在支列国権益概説』、340-341頁;田青剛「鶏公山外人購地建屋案交渉述論」『信陽師範学院学報(哲学社会科学版)』、137-139頁を参照ください。

[2]「教会区」と「洋商区」は湖北省河南省が共同で管理しました。行政権が中国に移ってからも、西洋人の自治組織は存在していたようです。例えば、「教会区」の各教会が「鶏公山北溝協会」を組織し、管理していたようです。詳しくは、呂曉玲「近代中国避暑度假研究(1895-1937年)」、蘇州大学博士学位論文、2011年、89頁。

[3]商埠地とは外国人の居住が認められて商業する地域のことを指します。例えば奉天(現在の瀋陽)もその一つでしたが、奉天には中国側が行政権を有する区域と、満鉄附属地という日本側が行政権を有する区域がありました。

[4]条約および交換公文については、「枢密院決議・一、山東省ニ関スル条約並南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約御批准ノ件外附属交換公文十三件・大正四年六月七日決議」国立公文書館蔵(請求番号:枢F00483100)を参照ください。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』、巖松堂書店、1939年。

田青剛「鶏公山外人購地建屋案交渉述論」『信陽師範学院学報(哲学社会科学版)』、137-139頁。

呂曉玲「近代中国避暑度假研究(1895-1937年)」、蘇州大学博士学位論文、2011年。

「枢密院決議・一、山東省ニ関スル条約並南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約御批准ノ件外附属交換公文十三件・大正四年六月七日決議」国立公文書館蔵(請求番号:枢F00483100)。