北京豊台駅のはなし

北京郊外にある北京豊台駅が「アジア最大」の駅となったというニュースがありました。2022年6月20日から運用されているようです。北京豊台駅は京沪鉄路(北京―上海)、京広鉄路(北京―広州)、豊沙鉄路(豊台―沙城)、京原鉄路(北京―原平)、豊広鉄路(豊台―広安門)、京広高速鉄路(北京―広州)、京港高速鉄路(北京―香港)の7路線が乗り合わせており、交通の要所となっています。地下鉄10号線と16号線にもアクセスが可能となっています。

豊台駅の歴史は1895年4月に当時の清朝政府が天津から盧溝橋までの鉄道を通すことを決めたところまで遡ります。この鉄道は「津芦鉄道」と呼ばれました[1]。当時の清朝は、鉄道を開設するだけの能力はなく、イギリスから40万ポンドを借りたようです。またこの鉄道は中国で初めての複線として運用されました。1896年に天津から盧溝橋間が開通し、1897年に、豊台までつながりました。

豊台の近くには盧溝橋があり、1930年代から日中両国の軍隊が駐兵し緊張が高まっていました。1937年7月には盧溝橋事件が起こり、豊台駅も日本軍に占領されました。戦後、豊台駅は中国政府によって「特等站」[2]として運用されました。1956年には豊台西駅ができたことにより、貨物輸送などの一部業務が豊台西駅が移されました。1996年には北京西駅ができ、大部分の旅客輸送が北京西駅へと移されました。2010年6月に豊台駅の旅客業務が停止され、改修工事が行われました。2022年3月に、「北京豊台駅」へと名称が変わり、6月20日から正式に運用されるようになりました。

駅の面積は約40万平方キロメートルで、上から見ると「中」の文字の形となっているようです。毎時1万4000人の旅客が駅で待つことができるようです。地上4階、地下3階まであり、高速鉄道と在来線が二重構造で運用されている「アジア最大」の駅となりました。

北京には北京駅や北京西駅といった規模の大きな駅があるなかで、「アジア最大」規模の北京豊台駅が必要となるのは、現状、鉄道駅の運用がひっ迫しているということなのでしょうか。空港も同様に、北京首都国際空港という大規模な空港がありますが、2019年には「北京大興国際空港」を開設しています。私は、北京豊台駅と北京大興国際空港もまだいけていません。いつか行ってみたいものです。今後も、北京などの交通インフラの整備も注目です。

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[1]盧溝橋は「芦溝橋」とも呼ばれたことから「津芦鉄道」と命名されたようです。

[2]中国政府による鉄道駅の等級の最高ランクが「特等站」です。

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参考文献:

百度百科(2023年11月閲覧)

北京人民政府ホームページ(2023年11月閲覧)

『豊台時報』2023年4月10日付

近代中国における内地雑居のはなし

はじめに

アヘン戦争(1840-1842)以降、中国は条約を各国と結び、西洋式の国際秩序へと参加していきました。当初、外国人は基本的に「通商口岸」という条約で決められた開港地でのみ居住や生活が許されていましたが、実際には、宣教師などの外国人が内地に入っていました。西洋の宗教を中国の内地で布教しようとすると、文化や宗教の衝突が起こりました。こうした宗教に関する事件を中国語で「教案」と言います。1848年の「青浦教案」や1856年の「西林教案」などがその代表例です。

1858年に中国とイギリスの間で「天津条約」が締結されると、イギリスなどの国々の外国人が開港地をはなれて内地に旅行などをすることができるようになりました。原則、外国人は土地の購入はできなかったのですが[1]、実際には購入する外国人もいました。ここでは内地雑居について簡単ではありますが書きたいと思います。

 

避暑地の形成と回収

湖北省河南省の境界近くに避暑地として有名な鶏公山という場所があります。1903年ごろから、外国人が鶏公山の土地を購入し教会や別荘などを建てていきました。中国各地からイギリスやアメリカ、日本などの宣教師や商人が鶏公山に来るようになりました。1905年までに27の別荘が建てられ、60人から70人ほどの外国人が滞在したようです。避暑地として発展するにつれて、中国側の行政権が行き届かなくなる場所が出てきました。外国人が独自の自治管理を行い、中国の警察が管理できなくなりました。こうなってくると、「租界」のような地域に変わっていきます。中国の内地で行政権が行き届かなくなると、中国側からすれば主権が制限されるので、見逃すわけにはいきません。そこで、中国側(湖北省河南省)と駐漢口総領事の間で交渉が行われ、1908年1月に「鶏公山収回基地房屋另議租屋避暑章程十条」が締結され、行政権が回収をされて外国人が行政管理することは禁止されました。外国人が購入した土地や建物は中国が買い戻し、その後外国人に貸すといった形を取ったようです。中国に回収された後、「教会区」、「洋商区」、「河南森林地」と「湖北森林地」の4つの区画に分けられ、中国側が管理することとなりました[2]。1935年には国民政府が「鶏公山管理局」を成立させ、行政、公安、教育などを管理していきました。

鶏公山以外にも、浙江省には莫干山という山があり、こちらも西洋人が避暑地としての目的で土地を購入、取得して、さまざまな別荘や施設を建てていきました。外国人が「莫干山避暑会」という自治会も成立させ、行政の一部も担っていたと考えられます。そうなると、こちらも中国の主権が制約されてしまいます。清朝末期から中国側は行政権の回収を目指し交渉を開始し、1928年には「莫干山管理局」が成立し、行政権を完全に回収しました。

河北省に位置する北載河にも西洋人が訪れ、土地を購入、建物を建てていきました。ここでも外国人が「北載河石嶺会」という自治会を成立させました。1917年に中国がドイツと断交すると、ドイツ人が避暑地から離れていき、中国側がドイツ人資産を回収します。1919年には「北載河公益会」を成立させますが、行政権執行は制限されていたようです。1932年5月に河北省が「北載河海浜自治区公署」を成立させ、1934年から本格的に機能したようです。

 

土地商租権問題

中国東北地方での土地商租権問題は、1915年のいわゆる「対華21カ条」要求に遡ります。それまでは、鉄道附属地や商埠地[3]などに限られていたものの、1915年5月に締結された「南満州及東部蒙古ニ関スル条約」の第2条では、日本人は南満州において各種工業上の建物を建設するため、または、農業を経営するため必要な土地を商租することができるとされ、第3条では日本人は南満州において自由に居住往来し各種の商工業そのほかの業務に従事することができるとされました。また、同条約第6条では中国はなるべく早く外国人の居住貿易のため自ら進んで東部内蒙古における適当な諸都市を開放することを約束しました。ここでいう「商租」とは土地を借りるという意味ですが、南満州における「商租の文字には三十箇年迄ノ長キ期限附ニテ且無条件ニテ更新シ得ヘキ租借ヲ含ムモノト了解」するとありました[4]。ただし、中国側はこの日本人の土地取得に反発し抵抗しました。これが土地商租権問題です。日本からすれば、条約通り南満州および東部内蒙古の土地を使用し、商業や農業で利益を得たいと思ったものの、中国側からすれば、軍事的な圧力をかけて締結した条約を認めるわけにはいかないとの思いがありました。結局、両者の意見は平行線をたどり、満州事変を迎えることとなりました。

 

おわりに

外国側は、商業や宗教などを外国人居留地から離れて内地で行いたいという一方、中国側としては、抵抗する側面を持っていました。日本も例外ではなく、南満州での土地商租権問題などは懸案の一つとなっていきました。

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[1]1865年の「ベルトミー協定(The Berthemy Convention)」及び1895年に協定に追記された内容によれば、ローマカトリックの団体であれば、内地で土地を購入し教会を建てることができたようです。ただし、鶏公山での土地取得は、宣教師が積極的に行ったものの、教会団体の公的財産との記載はなく、個人取得の側面が強いことから法的に問題があったようです。詳しくは植田捷雄『在支列国権益概説』、340-341頁;田青剛「鶏公山外人購地建屋案交渉述論」『信陽師範学院学報(哲学社会科学版)』、137-139頁を参照ください。

[2]「教会区」と「洋商区」は湖北省河南省が共同で管理しました。行政権が中国に移ってからも、西洋人の自治組織は存在していたようです。例えば、「教会区」の各教会が「鶏公山北溝協会」を組織し、管理していたようです。詳しくは、呂曉玲「近代中国避暑度假研究(1895-1937年)」、蘇州大学博士学位論文、2011年、89頁。

[3]商埠地とは外国人の居住が認められて商業する地域のことを指します。例えば奉天(現在の瀋陽)もその一つでしたが、奉天には中国側が行政権を有する区域と、満鉄附属地という日本側が行政権を有する区域がありました。

[4]条約および交換公文については、「枢密院決議・一、山東省ニ関スル条約並南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約御批准ノ件外附属交換公文十三件・大正四年六月七日決議」国立公文書館蔵(請求番号:枢F00483100)を参照ください。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』、巖松堂書店、1939年。

田青剛「鶏公山外人購地建屋案交渉述論」『信陽師範学院学報(哲学社会科学版)』、137-139頁。

呂曉玲「近代中国避暑度假研究(1895-1937年)」、蘇州大学博士学位論文、2011年。

「枢密院決議・一、山東省ニ関スル条約並南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約御批准ノ件外附属交換公文十三件・大正四年六月七日決議」国立公文書館蔵(請求番号:枢F00483100)。

中国に駐兵していた日本軍のはなし

はじめに

日本はかつて中国に日本軍を駐兵させていました。主な目的は、居留民や鉄道の保護でした。ここでは、簡単ではありますが、歴史を振り返りたいと思います。

 

東北地方

イギリスやフランス、ロシア、ドイツなどの国は租借地(中国から借りた土地)を得ると軍隊を駐兵させました。日本は日露戦争の後、ロシアの租借地であった旅順・大連を得ました。そして、日本軍を租借地および南満州鉄道附属地に駐兵させました。これらの軍隊は、関東都督陸軍部で、租借地および鉄道附属地を防衛する目的で駐屯していましたが、1919年に関東庁が改組されると、関東軍として独立しました。1931年9月に、関東軍は自ら柳条湖付近で南満州鉄道を爆破させ、満州事変が起こりました。東北地方における日本軍の駐屯は、日露戦争後に結ばれた「日露両国講和条約」の追加約款第1条を根拠にしていました。ただし、「日清間満州に関する条約」の附属協定第2条では、外国人の安全を中国側が保護できる状況になった場合は、鉄道附属地から撤退するとあり、日本と中国側で、外国人の安全を保護できているかで主張が食い違っていました。

 

華北地区

義和団事件が起こり、1901年に日本を含む11カ国と中国との間に「北京議定書」が締結され、8カ国の軍隊が山海関から北京までの鉄道沿線計12か所に外国が駐兵することとなりました。北京では、公使館区に日本軍が駐兵し、天津にも駐兵しました。これらの日本軍は「清国駐屯軍」のちに「支那駐屯軍」と呼ばれます。駐兵理由は、公使館・領事館、居留民の保護などでした。各国は華北地区に軍隊を駐兵させ、ある意味では「国際協調」的な側面がありました。1937年7月に北京郊外の豊台に駐屯する日本軍と中国軍との衝突が起き、日中戦争の発端となりました。ただ、豊台は「北京議定書」が定める駐兵地点に入っていませんでした。

 

山東

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は山東省に出兵し、ドイツとの戦争の結果、ドイツ租借地および山東鉄道沿線を占領しました。この結果、青島守備軍と呼ばれる陸軍が駐兵することとなりました。1915年には「対華21カ条の要求」を北京政府に提出し、山東省における旧ドイツ権益を日本が継承することとなりました。ただし、こうした日本の強硬な姿勢は中国世論の反発を引き起こし、日本製品ボイコット運動が起こります。1919年には、フランス・パリで講和会議が開かれ、中国は第一次世界大戦戦勝国として参加し、旧ドイツ権益を中国に返還することを求めたものの、認められず、五・四運動が起きます。1921年から22年までのワシントン会議の開催に伴い、山東問題が再び議論され、旧ドイツ権益は中国に返還されることとなりました。これにより、日本軍は山東省から撤退をします。ただし、その後、北伐の際に、日本は山東省に軍隊を派遣しています。済南では、中国軍と軍事衝突が起きました。注目すべきは、第一次世界大戦の際、日本がドイツと戦争する際の最後通牒で、租借地を中国側に返還することを目的として日本側に渡すことを要求していたことです。結果的に日本とドイツとの間で戦闘が起こり、「山東問題」が複雑化してくことになりました。

 

漢口

1911年に辛亥革命が起きると、日本、ロシア、イギリス、ドイツなど各国は漢口に軍隊を派遣しました。ただ、他の国は比較的短期間で軍隊を撤退させたものの、各国の軍隊が撤退した後も日本軍は単独で駐屯することとなりました。漢口での日本軍の駐屯は、当初、日本租界内だったのですが、その後租界の外側に兵営を設置しました。こうした駐兵は法的な根拠が乏しく、日本軍は1922年7月に、漢口から完全に撤退しました。辛亥革命以降漢口に駐屯していた日本軍を「中清派遣隊」のちに「中支那派遣隊」と呼ばれます。

 

おわりに

上記以外にも、租界に住む居留民を保護するという理由で軍隊を上陸させるということがありましが、こうした軍事行動は条約上の根拠は乏しかったようです。1932年の第一次上海事変の後、上海海軍特別陸戦隊を上海に常駐させましたが、これも上海にいる日本居留民と経済的利益を保護することが理由でした。上海では、1937年の盧溝橋事件の後、再び大規模な衝突が起きています。

日本軍が中国に駐留する理由としては、基本的には、居留民や鉄道、経済的な利益を保護することとなっていました。ただ、駐兵が中国側との衝突のきっかけになったという側面もあります。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

櫻井良樹華北駐屯日本軍』岩波書店、2015年。

租界と租借地はどう違うのか

租界と租借地はどちらも外国が行政権を持っている点で共通していますが、いくつか違う点があります。租界の行政は(総)領事や「工部局」と呼ばれる行政機関が担っていましたが、租借地は租借国、つまりは土地を借りている国が任命した総督などが行政のトップとなっていました。面積についていえば、租借地は基本的に租界よりも大きく、租界の存在は経済的な意味合いが強いのに対して、租借地は軍事的戦略性が強いと言えます。租界に関しては、借りている国が中国側に「地税」を支払うのに対し、租借地は支払う必要はなかったようです。司法の面でも違いがあり、例えば中国人が租界内で犯罪を犯した場合、中国の裁判所で中国の法律によって裁かれるのに対し、租借地では、租借地の法律が適用されました。司法のほか、関税についても複雑ではありますがもう少し調べてみる必要がありそうです。戦争が勃発した際、租界は中立区としてみなされるのに対して、租借地は中立区とはみなされないようです。例えば、第一次世界大戦においては、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し、ドイツの膠州湾租借地を占領しました。旅順・大連の租借地に「中立地帯」という地域が隣接していて、ここは中国側が行政権を持っているものの、中国軍が入ることはできない場所でした。衝突を防ぐことが目的であったと考えられます。また、中国がドイツ、オーストリアに宣戦布告(1917年)した後は、ドイツ租界とオーストリア租界を回収しています。また、ロシア革命の勃発後、中国はロシア租界を回収しています。

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参考文献

植田捷雄「支那租界論 増補版」、巌松堂書店、1939年。

植田捷雄「在支列国権益概説」、巌松堂書店、1939年。

張洪祥著「近代中国通商口岸与租界」天津人民出版社、1993年。

北京公使館区域のはなし

はじめに

中国・北京にはかつて「北京公使館区域」(中国語:北京使館区;英語:Peking Legation Quarter)という特殊な地域が存在していました。「東交民巷」(とうこうみんこう)と呼ばれる場所に位置し、大きさは東西約1200メートル、南北約650メートルで、この場所に、日本を含む各国の公使館がありました。この地域は特殊で、外国人が管理し、中国人は住むことはできず(例外あり)、各国の軍隊が公使館を守る目的で駐屯していました。

 

区域の出現

では、なぜこのような特殊な地域ができたのでしょうか。遡ること1900年に義和団という排外主義的な集団が北京の公使館を襲撃し、ドイツ公使や日本の公使館書記生が殺害されるという事件がありました。義和団事件と言います。日本を含む列強8カ国は軍隊を派遣し、1901年に「北清事変に関する最終議定書」(通称、北京議定書)を清朝政府と締結し、清朝側は多額の賠償金を支払うとともに、議定書第7条に基づき北京公使館区域が設置されることとなりました。この区域には各国の軍隊が駐留しており、また北京から山海関までの要所に軍隊を置くことが議定書で定められたのです。中国政府はこの区域を管理できず、外国人が行政権を持っていました。その意味で、特殊な地域であったと言えます。

 

避難場所としての側面

北京公使館区域は公使や外交官、軍人のみの居住が原則であると考えられますが、実際には、郵便局や銀行、ホテル、日用雑貨屋などがあり、万一、一般の外国人が避難してきても日常生活できるようにはなっていたようです。中国人は居住できないと定められていますが、外国人に雇用された中国人は区域内に住んでいたようです。ただし、原則、中国兵は区域内を通行することはできないとのことです。問題は、政変などによって迫害を受けることを恐れた中国人が公使館に逃げ込んだ場合どうするかということです。実際、そういった例はいくつかあり、こういった場合には各国の意向を聞きながら処理することが原則のようです。最も有名なのは、愛新覚羅溥儀、いわゆる「ラストエンペラー」が紫禁城を追われた後、日本公使館に逃げてきたことがありました。そのほかにも、区域内には「六国飯店」というホテルがあり、ここに逃げ込む中国人もいたようです。

 

さいごに

第二次世界大戦後、公使館区域は中国に回収されました。今でも「東交民巷」には銀行などの建物が残っているようです。歴史を感じながら街歩きをしてみたいものです。

 

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

租借地のはなし

はじめに

租借地とは、外国が中国から借りた地域のことを指します。中国が自ら望んで貸したというよりかは、外国が軍隊などを用いて脅して借りた形です。租借地は中国国内にありながら、外国が行政権を持っていました。

 

各地の租借地

膠州湾租借地

1897年11月にドイツの宣教師2名が山東省内で殺害され、ドイツが軍隊を山東省に派遣しました。翌年の1898年にドイツは山東省の膠州を99年間租借することとなりました。こうしてドイツは膠州を租借、運営していくこととなります。現在でも青島がビールで有名なのはこうした歴史的な背景があります。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に山東省に軍隊を派遣し、膠州湾租借地山東鉄道を占領します。1915年にいわゆる「対華21カ条の要求」を中国に突き付け、交渉の末、山東省のドイツ権益を日本に譲ることとなりました。日本の強引な姿勢は、中国世論の反感を買い、反日運動が起こります。第一世界大戦後に開かれたパリ講和会議(1919年)で中国代表団は旧ドイツ権益を返還するよう求めますが、最終的には実現しませんでした。中国が第一次世界大戦戦勝国になったにもかかわらず、回収できなかったことに中国世論は憤慨し、「五・四運動」が起こります。膠州湾租借地などの返還について、いわゆる「山東問題」については1922年のワシントン会議において再び議論され、結果的に、中国側に返還されることとなりました。ただし、その後も、3度にわたる山東出兵などで山東省に軍隊を派遣しています。

 

関東州租借地

1894年に日清戦争が勃発し、翌年の4月17日に締結した下関条約遼東半島が日本に永久割譲されることとなりました。しかし、いわゆる三国干渉によって日本は遼東半島を中国に返還し、かわりに3千万両の償金を得ることとなりました。その後、ロシアは、1898年に旅順・大連の租借権(25年)と鉄道敷設権を得ることとなります。1904年に日露戦争が勃発し、翌年9月に締結されたポーツマス条約によって日本は旅順・大連の租借権(1923年まで)と旅順口から長春(寬城子)までの鉄道部分を得ることとなりました。1915年に日本が「対華21カ条の要求」を中国側に突き付け、関東州と南満州鉄道などの租借期限をそれぞれ25年から99年に延長することとなりました。ただ中国世論はこうした日本の要求に反発し、1923年(租借期限25年の場合1923年に返還であったため)には旅順・大連の返還を求める大規模な運動が起こりました。1931年9月に満州事変が起こり、翌年、傀儡国家である「満州国」が建国されると、関東州租借地は「日満議定書」に基づき「満州国」から借りる形となりました。1937年には「満州国」における治外法権を日本が撤廃し、南満州鉄道附属地の行政権を「満州国」に「移譲」することとなりました。1945年8月にソ連軍が旅順・大連を占領し、1955年までに中華人民共和国へと返還されたようです。

 

広州湾租借地

1898年、フランスは中国に対し租借地および鉄道敷設権などを要求し、翌年の11月にフランスは「広州湾租界条約」を中国と締結し、広州湾を99年間租借することとなりました。同時に、広州湾赤坎から安鋪までの鉄道敷設権を得ることとなりました。広州湾租借地は総面積1300平方キロメートルで人口は約22万人でした。租借地はフランス領インドシナ総督の統治に置かれ、総督は行政長官に租借地内の行政を任せていました。租借地内は3つの行政区に分けられ、軍事と政治の中心は西営に、貿易の中心は赤坎に置かれました。第二次世界大戦が勃発した後、広州湾租借地は自由フランス亡命政府の管轄に置かれていたようですが、1943年に日本軍が租借地内に進駐しました。当時重慶にあった国民政府はこのことに強く抗議したようです。1945年8月に日本が降伏すると、フランスと国民政府が重慶で協定を結び、1899年の条約の破棄と租借地の行政権を中国側に返還することが決められ、返還が開始されました。1947年5月までに広州湾租借地がすべて中国側に返還されました。

 

九龍租借地

アヘン戦争(1840-1842)の後、「南京条約」によって香港島がイギリスに割譲され、続いて、1860年に「北京条約」によって九龍半島の南側がイギリスに割譲されました。イギリスは、フランスが広州湾を租借しようとしていることが香港の利益を侵害する恐れがあるとして、香港の領域を広げることを中国側に要求しました。1898年6月にイギリスと中国は「展拓香港界址専条」を締結し、深圳河より南側の九龍半島とその付近の島々を99年間イギリスに租借することとなりました。この地域を「新界」と呼びます。1941年12月に日本とイギリスが戦争に突入すると、日本軍は香港に進駐します。同月25日に香港総督が降伏し、香港での戦いが終了しました。ここから3年8カ月 にわたって香港は日本の占領下に入ります。1945年8月に日本が戦争に負けた後、翌月16日に香港総督府にて降伏文書に署名しました。中国側は、香港を回収する希望はあったようですが、結果的にイギリスが再び香港を運営していくこととなります。1971年に中華人民共和国が国連に参加すると、香港とマカオ不平等条約によって残された問題であり、中国領土の一部で、通常の「植民地」とは違うと提起しました。80年代になり、新界の租借期限満期が近づいたため、中国とイギリスが交渉を行い、結果的に、1984年12月19日に「香港問題に関する共同声明」に署名しました。声明において、イギリスが、1997年7月1日に香港を中華人民共和国に返還することが決まりました。1997年7月1日に香港は中華人民共和国に返還され、「香港特別行政区」となりました。

 

威海衛租借地

日清戦争(1894-1895)の際、日本軍は威海衛に上陸しました。日本は、中国側が賠償金を支払った場合、威海衛から軍を撤退する意思を示していました。また、イギリスは、イギリスが威海衛を租借しても日本は反対しないことを確認していました。日本としては、イギリスと共にロシアに対抗する必要があったためです。威海衛は山東省の北東部に位置し、旅順・大連とも距離的に近いため、ロシアをけん制する目的があったと思われます。さらに、イギリスは、ドイツの山東権益を侵害しない旨を通達し、租借地付近での鉄道敷設はしないことを宣言しました。こうして、1898年7月1日に「英中威海衛租借専条」を締結し、この地を租借することとなりました。締結までの5月23日に日本軍は威海衛を撤退し、翌日の5月24日にイギリスの軍艦が威海衛に入港しました。イギリスは、「威海衛弁事大臣公署」を設置し、イギリスの弁事大臣が統治することとなりました。租借期限は、旅順・大連と同じく25年でした。ただ、威海衛は鉄道がなかったため、経済的には発展しなかったようです。1905年9月に旅順・大連がロシアから日本の手に渡ると、中国側は、威海衛の返還を求めたものの、イギリスは受け入れませんでした。租借期限満期である1923年が近づくにつれ、租借地回収の世論は高まっていきました。中国とイギリスは交渉の末、1924年11月28日に租借地回収に関する専約草案に署名しました。ただし、北京において政変が起き、回収の交渉がとん挫することになります。1929年から、国民政府外交部長である王正廷がイギリス側と交渉を進め、1930年4月に「威海衛交収専約」と「協定」に調印し、同年10月1日に南京で批准書が交わされ、同日午前10時30分、威海衛にてイギリスから中国への引継ぎの儀式を行い、ここから中国の管理下に置かれます。ただし、威海衛近くの離島である劉公島上の施設については引き続き10年間はイギリス軍が使用できるとされました。1937年に日中戦争が勃発すると、翌年、日本軍が威海衛と劉公島を占領し、イギリス軍の大部分は撤退したようです。日本の傀儡政権である汪兆銘政権は引き続きイギリス軍が使用することを認めなかったため、条約に基づき、1940年10月1日にすべてのイギリス軍が撤退しました。汪兆銘政権の海軍は劉公島に「威海衛要港司令部」を成立させました。中国が本当の意味で劉公島を回収したのは日中戦争が終わってからのことです。現在は、「威海市」となっています。

 

おわりに

国家の主権という意識が高まるにつれて、租界同様、租借地についても回収することが重要なテーマとなっていきました。1997年に九龍租借地を含む香港が返還されたことにより、租借地回収の外交交渉に終止符を打つこととなりました。

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参考文献:

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

李恩函「中英収交威海衛租借地的交渉」『中央研究院近代史研究所集刊』第21期、1992年。

張洪祥『近代中国通商口岸与租界』天津人民出版社、1993年。

石源華『中華民国外交史』上海人民出版社、1994年。

租界のはなし

はじめに

「租界」とは外国人が中国で居住、生活するために設置された区域のことです。現在は存在していません。アヘン戦争(1840-1842)以降、中国が港を開放して以降、租界が開設されました。租界は中国国内にあるにもかかわらず外国が行政権を持っており、中国側の主権が制限されていました。そのため、租界は「国中之国」(国の中の国)と呼ばれることもありました。

 

租界の種類

租界は大きく分けて2種類あります。ひとつは、1国が単独で管理する「専管租界」、もうひとつが、「共同租界」(英語:International Settlement;中国語:公共租界)といって複数の国が共同して管理する租界です。日本やイギリス、フランスなどがそれぞれ専管租界を持っていました。また、共同租界は上海とアモイ(コロンス島)にありました。日本は、天津、漢口、杭州、沙市、蘇州、重慶、福州などに租界を設置したものの、沙市、福州、重慶などの租界は発展せず、租界としての機能を持たないままの租界もあったようです。アモイには日本の租界が設置される予定でしたが、最終的に設置されなかったようです。また、蕪湖には中国側による行政権の関与が強い「共同租界」があったようです。租界は、基本的に外国側が行政権を持っていましたが、中国人が租界内で犯罪を犯した場合は、規定では、中国の法廷で、中国の法律に基づき裁判が行われるようです。また、租界とは別に、日本やロシアなどは中国の東北地方に「鉄道附属地」という地域も運営していて、ここも中国の領土内にありながら外国側が行政権を持つ場所でした。

 

租界の回収(1):第一次世界大戦と革命

国の主権といった意識が高まるにつれ、租界は中国の主権を侵害する地域として認識されてきました。そして、租界を回収することも、中国の独立にとって重要なテーマとなりました。

租界は、第一次世界大戦(1914-1918)の勃発によって大きな転換期を迎えました。第一次世界大戦の勃発後、中国は中立を宣言していましたが、1917年3月14日にドイツとの外交関係の断絶を宣言、続いて、同年8月14日にドイツとオーストリアに宣戦布告しました。その後、中国はドイツ(天津と漢口)とオーストリア(天津)の租界を回収していきました。

1917年にロシアで十月革命が勃発、新しく誕生したソビエト政権は中国に帝国時代の特権を放棄することを宣言しました。中国は、ロシア租界(天津、漢口)の回収を開始し、1924年に正式にロシア租界を回収することとなりました。

1920年代、中国の主権回収の世論は大きく発展し、広東を拠点とする国民政府が北に向かって進軍していきます(北伐)。1927年1月にイギリスの九江租界と漢口租界が国民政府の軍隊によって占領され、同年2月に交わされた協定に基づき同年3月に2つのイギリス租界が中国によって回収されました。同月には国民政府の軍隊が江蘇省の鎮江を占領し、鎮江のイギリス租界が事実上回収されました。1929年に国民政府とイギリス側が協議を行い、正式に中国側に返還されました。1930年にはアモイのイギリス租界が正式に中国側に返還されました。イギリスのほかに、ベルギーも1929年に天津租界を中国側に返還することとなりました。

 

租界の回収(2):日中戦争

1937年7月に盧溝橋事件が勃発し、日中両国が全面的な戦争に突入しました。1938年8月に湖北省政府が漢口の日本租界を回収したものの、中国各地が日本軍に占領されたため、中国が実際に回収できたのは重慶の日本租界のみでした。1941年12月に太平洋戦争が勃発した後、日本軍はイギリス租界(天津、広州)と共同租界(上海、アモイ)を占領しました。日本軍が占領した租界と日本租界は日本の傀儡政権である汪兆銘政権へと「返還」されていきました。ただ、この過程は複雑なので、詳しくは書きません。第二次世界大戦が終わったのち、1945年11月に戦勝国である中国国民政府外交部が租界を回収する旨発表し、租界を回収することとなりました。

 

おわりに

租界は外国人が居住、生活するために設置されました。もちろん、外国人も住んでいましたが、多くの中国人も租界に住んでいました。また、中国で紛争などが勃発すると、中国人が租界に避難してくるということもありました。逆に、租界の外に居住する外国人もいました。現在は租界はありませんが、洋風の建物が、上海や天津などに多く残っており、観光地となっています。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

植田捷雄『支那に於ける租界の研究』巖松堂書店、1941年。

張洪祥『近代中国通商口岸与租界』天津人民出版社、1993年。