租界のはなし

はじめに

「租界」とは外国人が中国で居住、生活するために設置された区域のことです。現在は存在していません。アヘン戦争(1840-1842)以降、中国が港を開放して以降、租界が開設されました。租界は中国国内にあるにもかかわらず外国が行政権を持っており、中国側の主権が制限されていました。そのため、租界は「国中之国」(国の中の国)と呼ばれることもありました。

 

租界の種類

租界は大きく分けて2種類あります。ひとつは、1国が単独で管理する「専管租界」、もうひとつが、「共同租界」(英語:International Settlement;中国語:公共租界)といって複数の国が共同して管理する租界です。日本やイギリス、フランスなどがそれぞれ専管租界を持っていました。また、共同租界は上海とアモイ(コロンス島)にありました。日本は、天津、漢口、杭州、沙市、蘇州、重慶、福州などに租界を設置したものの、沙市、福州、重慶などの租界は発展せず、租界としての機能を持たないままの租界もあったようです。アモイには日本の租界が設置される予定でしたが、最終的に設置されなかったようです。また、蕪湖には中国側による行政権の関与が強い「共同租界」があったようです。租界は、基本的に外国側が行政権を持っていましたが、中国人が租界内で犯罪を犯した場合は、規定では、中国の法廷で、中国の法律に基づき裁判が行われるようです。また、租界とは別に、日本やロシアなどは中国の東北地方に「鉄道附属地」という地域も運営していて、ここも中国の領土内にありながら外国側が行政権を持つ場所でした。

 

租界の回収(1):第一次世界大戦と革命

国の主権といった意識が高まるにつれ、租界は中国の主権を侵害する地域として認識されてきました。そして、租界を回収することも、中国の独立にとって重要なテーマとなりました。

租界は、第一次世界大戦(1914-1918)の勃発によって大きな転換期を迎えました。第一次世界大戦の勃発後、中国は中立を宣言していましたが、1917年3月14日にドイツとの外交関係の断絶を宣言、続いて、同年8月14日にドイツとオーストリアに宣戦布告しました。その後、中国はドイツ(天津と漢口)とオーストリア(天津)の租界を回収していきました。

1917年にロシアで十月革命が勃発、新しく誕生したソビエト政権は中国に帝国時代の特権を放棄することを宣言しました。中国は、ロシア租界(天津、漢口)の回収を開始し、1924年に正式にロシア租界を回収することとなりました。

1920年代、中国の主権回収の世論は大きく発展し、広東を拠点とする国民政府が北に向かって進軍していきます(北伐)。1927年1月にイギリスの九江租界と漢口租界が国民政府の軍隊によって占領され、同年2月に交わされた協定に基づき同年3月に2つのイギリス租界が中国によって回収されました。同月には国民政府の軍隊が江蘇省の鎮江を占領し、鎮江のイギリス租界が事実上回収されました。1929年に国民政府とイギリス側が協議を行い、正式に中国側に返還されました。1930年にはアモイのイギリス租界が正式に中国側に返還されました。イギリスのほかに、ベルギーも1929年に天津租界を中国側に返還することとなりました。

 

租界の回収(2):日中戦争

1937年7月に盧溝橋事件が勃発し、日中両国が全面的な戦争に突入しました。1938年8月に湖北省政府が漢口の日本租界を回収したものの、中国各地が日本軍に占領されたため、中国が実際に回収できたのは重慶の日本租界のみでした。1941年12月に太平洋戦争が勃発した後、日本軍はイギリス租界(天津、広州)と共同租界(上海、アモイ)を占領しました。日本軍が占領した租界と日本租界は日本の傀儡政権である汪兆銘政権へと「返還」されていきました。ただ、この過程は複雑なので、詳しくは書きません。第二次世界大戦が終わったのち、1945年11月に戦勝国である中国国民政府外交部が租界を回収する旨発表し、租界を回収することとなりました。

 

おわりに

租界は外国人が居住、生活するために設置されました。もちろん、外国人も住んでいましたが、多くの中国人も租界に住んでいました。また、中国で紛争などが勃発すると、中国人が租界に避難してくるということもありました。逆に、租界の外に居住する外国人もいました。現在は租界はありませんが、洋風の建物が、上海や天津などに多く残っており、観光地となっています。

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。

植田捷雄『支那に於ける租界の研究』巖松堂書店、1941年。

張洪祥『近代中国通商口岸与租界』天津人民出版社、1993年。