北京公使館区域のはなし

はじめに

中国・北京にはかつて「北京公使館区域」(中国語:北京使館区;英語:Peking Legation Quarter)という特殊な地域が存在していました。「東交民巷」(とうこうみんこう)と呼ばれる場所に位置し、大きさは東西約1200メートル、南北約650メートルで、この場所に、日本を含む各国の公使館がありました。この地域は特殊で、外国人が管理し、中国人は住むことはできず(例外あり)、各国の軍隊が公使館を守る目的で駐屯していました。

 

区域の出現

では、なぜこのような特殊な地域ができたのでしょうか。遡ること1900年に義和団という排外主義的な集団が北京の公使館を襲撃し、ドイツ公使や日本の公使館書記生が殺害されるという事件がありました。義和団事件と言います。日本を含む列強8カ国は軍隊を派遣し、1901年に「北清事変に関する最終議定書」(通称、北京議定書)を清朝政府と締結し、清朝側は多額の賠償金を支払うとともに、議定書第7条に基づき北京公使館区域が設置されることとなりました。この区域には各国の軍隊が駐留しており、また北京から山海関までの要所に軍隊を置くことが議定書で定められたのです。中国政府はこの区域を管理できず、外国人が行政権を持っていました。その意味で、特殊な地域であったと言えます。

 

避難場所としての側面

北京公使館区域は公使や外交官、軍人のみの居住が原則であると考えられますが、実際には、郵便局や銀行、ホテル、日用雑貨屋などがあり、万一、一般の外国人が避難してきても日常生活できるようにはなっていたようです。中国人は居住できないと定められていますが、外国人に雇用された中国人は区域内に住んでいたようです。ただし、原則、中国兵は区域内を通行することはできないとのことです。問題は、政変などによって迫害を受けることを恐れた中国人が公使館に逃げ込んだ場合どうするかということです。実際、そういった例はいくつかあり、こういった場合には各国の意向を聞きながら処理することが原則のようです。最も有名なのは、愛新覚羅溥儀、いわゆる「ラストエンペラー」が紫禁城を追われた後、日本公使館に逃げてきたことがありました。そのほかにも、区域内には「六国飯店」というホテルがあり、ここに逃げ込む中国人もいたようです。

 

さいごに

第二次世界大戦後、公使館区域は中国に回収されました。今でも「東交民巷」には銀行などの建物が残っているようです。歴史を感じながら街歩きをしてみたいものです。

 

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参考文献

植田捷雄『在支列国権益概説』巖松堂書店、1939年。